いつもやるべきことは変わらない

M.K.

コロナウイルスによって、生活の変化を余儀なくされてから約1年が経った。この1年間振り返ってみてどうだっただろうか。

私は初めの頃、それまで時間をかけて準備をしてきた仕事がなくなったことを残念に思うと同時に、「緊急」という名の下に様々なことが制限され、多くの人がそれに従う姿に、本当に一人ひとりが考えているのかと疑問を抱いた。私自身もまた、変化に応じて変わることができる、と思っていたが、そうではなかったのかもしれない。ただ大きな変化を経験したことがなかっただけで、その疑問を抱きながらもできることはとても少ないことに気づいた。

太平洋の島国、ソロモンの人たちについて書かれた論文から、彼らの習慣を少し紹介したい。

*聖書に出てくるソロモン王国ではなく、ソロモン諸島のこと。

ソロモンの人たちは、村内で、自分たちの文化とは何か、大切な精神は何か、とディスカッションをする習慣があるようだ。だから、伝統的ではない、全く新しい外来の知識や習慣が入って来た時も、それについて話し合う場所と時間がある。外来の知識や習慣とは、例えば、農業技術や食習慣などが考えられる。その新しい知識や習慣を自分の生活の中で使ってみてどうだったか、その体験についてどう感じたかを共有し合う。そして、その新しい知識、習慣について共通の認識を持ち、その考え、知識、技術は自分たちの文化に合っているのか、どのように生活に当てはめることができるのかを評価する。こうして自分たちが持っていた元々の知識や習慣と組み合わされ、新しい、その土地に合った知識や習慣が生み出される。

このプロセスを通して私が大事だと感じたポイントは、自分たちの大切にしている価値基準に照らして判断し、そして、自分たちの生活に組み込んでいくことである。ソロモンの人びとは、ただ外からのものを取り入れるだけでは「発展」ではなく、どんな変化が起きても、柔軟にその変化に対応し、自分たちで解決策を見出し、行動していくことで、「生き生きと」しているように感じる(feel “alive”)と言っている。

さて、このプロセス、みなさんも体験したことがないだろうか?私はこのソロモンの話を読んで、まさにこれまでも望洋庵でやってきたことだと感じた。

どんなに社会が変化しても、私たちには戻ることができる場所がある。聖書に立ち返るとともに、神さまや自分自身と向き合い、仲間と分かち合い、私が大切にしているものは何か、と振り返る。そして、自分の生活の中でどのようにそのみことばを生きることができるのか、私は今、何ができるのか、何が求められているのかを考える。

望洋庵は、いまひとつ人生にかけてみたい人が「識別」をするための場所。このように変化の多い世の中でも神さまを信頼し、自分の「召命」に向かって一歩を踏み出せる人を育てる場所である。

望洋庵では去年の春から、オンラインで、これまでのように講座や祈りの時間を持つことができている。形を変えて、でも私たちがやるべきことは変わっていない。対面の代わりにオンラインでするのではない。どんなに頑張ってもオンラインが対面に代わることはできないと私は思っている。でも「不要不急」だからオンラインでする。

社会が変化している今だからこそ、自分が大切にしているものを見つめ直し、一歩踏み出すことの重要性を再確認するとともに、望洋庵がやって来たこと、これからやっていくべきことは変わらないのだ、と感じた。

ちょうど今月は東日本大震災から10年という節目を迎えた。震災が起きた時、一瞬にして日常は非日常に変わった。でも、いつ、日常に戻ったのだろうか。その境目はない。全く同じ日常に戻ることは、残念ながらできない。

コロナウイルスによって日常は非日常へと変わった。しかし、コロナ前と全く同じ日常はもうやって来ない。そして既にポストコロナの新しい「日常」は始まっている。

どんなに社会が変化しても、望洋庵も、私たち一人ひとりもやるべきことは変わらない。私たちはソロモンの人のように、その変化を受け入れ、「生き生きと」生きているだろうか?

<参考文献>

Gegeo D. 1998. “Indigenous Knowledge and Empowerment: Rural Development Examined from Within” Contemporary Pacific. 10 (2): 289-315

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