Critical thinking

『自分ではなく、家族ではなく、イエスを一番におきなさい。そして、自分以外の他者の良さ・輝きをただただ受け入れ続けなさい』

※この原稿を書いたのは、2020年の6月です。同年7月の第1週目の主日の福音(マタイ10章37-42)をもとに当時感じていたことを書いています。“望洋の窓”に投稿させていただくのが遅くなってしまったため、現在とは社会の状況も少し違いますがお読みくださるとうれしいです。

コロナ禍による様々な情勢の変化を受けて、望洋庵ホームページの新たな取り組みとして定期的なコラム記事の掲載が始まりました。生前、溝部司教様は青年を集めて自身の夢や構想を語って下さったことがあります。『大いなる裁量と自由なる意志を持って挑むこと』。尊敬している人、大切にしたいものにこそ、イエスマンにならずに、建設的な批判の精神・建設的な批判の目を持って、分析すること。そして、恐れずに良くするために、相手のことを思って上奏すること。それが、愛することに繋がり、そして自分を低くして相手の為に生きることへの1つの道であると。

人はどんなに清く正しく生きても決して完璧になれません。自分の性別・身体や容姿・周りの人達からの接せられ方、自分固有の経験によって、自分が自分であるという限界があります。私とは世界で唯一無二で、他の大切な友人も私とは全く違う唯一無二の存在です。だから、大切にしたいと思う人、幸せでいて欲しいと思う人がいるならば、例え嫌われてでも自分にしか分からないその人のつまずき、困難さ、癖、弱点をちゃんと見つめて(その人の好い所を勿論十分に見つめて、愛したうえで)、イエス様が一番望まれる道を共に歩むためにはどうすればいいのか、をアドバイスし続ける必要があるのです。

大切な友でありつつ、その人の親や先輩や兄や姉の顔を一部分はお互いに持っていないといけないということだと思います。痛みを伴っても、疎ましく思われても相手の行く末を思って今の私の1歩を選ばないといけないのだと思います。

私は、そのくらいイエスという人格と共に生きるということは誰にとっても困難なことだと思います。他者を傷つけ、損なっている時間なんて本当にないくらい、イエスに向かって歩み始めたら自分自身と常に闘い続けなければならず、隣人を愛することに全身と全霊をかけても時が足りないくらい計り知れずに大きなことなのだと思います。だから、誰も1人では成し遂げられない決して成し遂げられない重荷なので、イエスを愛すること、友を愛する為に、お互い惜しみなく助け会うようにイエスは呼びかけているんだと思います。溝部司教様が臨終の前に私達青年に語って下さった大切にすべき心構えのお話は、今日のマタイ福音書10章37-42節に繋がっているように思います。

私達は(少なくても私は)、歯を食いしばって、全力疾走する前のように息を整え、精神を集中させ、心を燃やさないと、とてもイエスを一番においた生き方や生活をすることができません。ぼんやりしていると、自分や自分に都合の良い人を優先した生き方・考え方をしてしまいます。だから、イエス様は剣のように大きな力になるけれど研ぎ澄ました心を持ち続けなければ、大切な人も自分も傷つけてしまうものを私達の関係性の只中に投げ込まれたのだと思います。戦士のように研ぎ澄ました心で、常にイエスを友人を、自分自身を見つめて、ただただ、イエスを一番において生きるように。天の父の御心を一番におき、周りの皆の命の輝きを守るために。

建設的な批判をするためには、誰よりもその人の良い所・素晴らしさ、優しさを知っていなければなりません。そして、その人のことを愛していなければなりません。だから、もっとその人がイエス様と一致するためのアドバイスができるのだと思います。この箇所で言われている大前提は、イエスのことを第一におくこと。その為に、全てを捧げること。挑むことだと思います。イエスの道、イエスの命、イエスの人格に挑み続けること。 そして、それと同じように相手の良さと輝きをただただ受け入れ、心で抱きしめること。正直な所、私は、それができません。自分と人を比べ、相手の良さを自身の中でけなし、貶め、強い嫉妬心を抱きます。ある時、望洋庵の分かち合いで周りの友人の良さを凄く褒める友人に凄いねと言ったことがあります。そうしたら、その友人は『認めるぐらいしか僕にはできひんから』と答えました。その日から、その言葉が私の目標になりました。自分とは全く異なる友人のイエスへの思い、その人の良さと輝きをちゃんと認め、愛することは、その人の持っている輝きと同じものを自身の中に宿すことなります。私の心は、もう限界なのでしょうか?嫉妬と悲しさで、もう傷つきたくないと限界だと思っていました。でも、例え、自分の心が痛みを覚えてもそれでも大切にしないといけないことが時にはあります(休まないといけない時も勿論あると思いますが)。どんな時も、イエスを私の中で一番において、私の周りにいる1人1人の人の良さを心からちゃんと認めること、受け入れること。隣人・友人の幸せな未来を信じること。その為に、私のできる小さな一歩を今日も踏み出すこと。そうできるように祈ります。

1 個のコメント

  • 言葉にならないくらいの素晴らしい神父様のメッセージに感涙して祈っておりますm(_ _)m

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