イタリアからのメッセージ

今回は、イタリア留学中の大塚神父さまからいただいたメッセージを「望洋庵の窓から」のために再編成していただいたものをお届けします。

 京都教区司祭 大塚 乾隆

  わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネによる福音14章6節)。

 

5月10日、復活節第五主日の福音箇所の前半部、ヨハネ14章1-6節はよく葬儀の場で使われる。そのこともあってか、どうしても「亡くなって、イエスさまを通って、父である神さまのもとに行く」というイメージを持っていた。しかし、5月9日(土)の体験で、私たちは「死ななくても父である神さまのもとに行ける、むしろ既に行ったことがある」と思えるようになった。

 5月4日からイタリアはFase2になったので、移動がしやすくなった。9日は運動したいということもあったので、自転車に乗って昼食後アッシジに向かった。午前中から出かければ良かったのだが、イタリア時間11:00(日本時間18:00)から、望洋庵での「オンライン晩課」があったので、それに参加してみたかったのだ。画面上ではあったが、共に祈るだけではなく、「いつもの振り返り」もでき、私にとってはたくさんの日本人の顔を見られ、とても嬉しい気持ちで旅に出かけた。

初めて行ったときは道に迷い、チェーンが外れ・・・片道3時間近くかかってしまった。しかし、9日は一度行ったことのある道を通ったので、地図を見る必要もなく1時間ぐらいで着いた。自転車をこぎながら思ったことを分かち合いたい。

(1) 私は既に父である神さまのもとに行ったことがある

 私の思い込みでないことを願いたいが、私は何回か?父である神さまのもとにいったことがあると思っている。しかし、私は時に父である神さまのもとから離れようとしたり、忘れようとしたりする。でも、そのときはまた「道」であるイエスさまを通って、イエスさまに導かれて父である神さまのもとに行けば良いのではないだろうか。

 最初にアッシジに行ったときは、まっすぐ行けず時間もかかってしまった。でも、一度行ったら次はそんなに迷うことはない。同じように、一度イエスさまという地図を頼りに、父である神さまの元にいったら、たとえ離れてしまっても、「行き方」を知っているから、また戻ることはできる。

(2) どうやって行くのか

 ガイドブックやインターネットで「アッシジ」への行き方を知っても、実際に行ってみなければどの道を通っていくかを体感できない。同じように、ただ読み物として聖書を読むだけでは生きた経験にはならないと思う。生きた経験をどうやって手に入れるのか、自分一人では難しいと思う。

 道であるイエスさま-イエスさまという地図-をどうやって手に入れるのか。私は、共同体がそれを助けてくれると思う。もちろん、最終的には自分がイエスさまと出会うということが必要なのだが、それを経験している人との分かち合いを経ることで、「道であるイエスさま」を歩んでいけると私は思う。このように思えたのは、出発前の「オンライン晩課」と「振り返り」で望洋庵で過ごした時間-青年たちと祈り・黙想し・分かち合い・食事を共にし・楽しい時間を過ごしたこと-を思い出せたからだろう。

 公開ミサができなくなって、主にYouTubeでミサに与ることはできる。でも、今は、この状況下にあってどのように「共同体」を作っていくかを考えるときなのだろう。難しく考えなくても良いと思う。ライングループやZoomで誰かと何かを話すことで、私たちは既に共同体を作り上げている。さらに、「共同体を作らなければならない」と思うと気が重くなる。「この話を誰かとしたい」という積極的な思いから、私たちは分かち合いを始めることができるのではないだろうか。宗教的なことに限らないだろう。日々の生活の中で起こる嬉しかったことや悲しかったこと・・・ただ自分の話をするだけではなく、相手の話も聞くことで、お互いに新しい道を歩むことができるだろう。でも、そのためには「この人なら」と思える人を見つけることから始めることも大切になってくるだろう。

 お尻と足の筋肉痛という犠牲は払ったものの、「死ななくても父である神さまのもとに行ける、むしろ既に行ったことがある」という気づきを得られたことが、大きな喜びであった。しかし、イエスさまはさらなる恵みを私に下さった。

 11日月曜日のミサの福音朗読の後に先輩の神父さんと分かち合いをしていて、「コロナ後の共同体」という話になった。そこで、私たちの歩みをイエスさまに導いてもらおうと、私が主司式だったので、「奉献文V/B」(未邦訳)をたまたま使ったら、「キリストは道・真理・命」とそのままのことばが出てきたのでとても驚いたのと同時に、土曜日からの出来事すべてがつながったように感じた。そこで、「奉献文V/B」の私訳ではなく、(特に私の印象に残った部分を)お祈りのことばとして(少し言葉をいじって)紹介したい[1]

父である神さま、あなたは親のようにすべての被造物を見守って、

 イエスさまの十字架によって救われ、聖霊のしるしをうけた私たちを

 一つの家族のもとに集めてくださいます。

あなたの生きたみことばであるイエスさまは、

  私たちをあなたのもとに導く、「道」

  私たちを自由にする、「真理」

  私たちを喜びで満たす、「命」です。

父である神さま、あなたのひとり子であるイエスさまが、

 私たちを聖なる食卓に呼び集めてくださったこの時、

 私たちはあなたの栄光をたたえます。

あなたはいつも私たちの歩みを支えてくださいます。

 イエスさまは、エマオで弟子たちになさったように、

 私たちに聖書の意味を教え、パンを分けてくださいます。

 全能の父である神さま、このパンとこのぶどう酒の上に聖霊を注いで下さい。……

 きれいな日本語になっていないし、訳が間違っているところもあると思う。でも、「道・真理・命」の箇所だけではなく、エマオに向かう弟子のことも出てきて、「皆、これを取って食べなさい・・・」ということばは、私の目の前にイエスさまがいて、イエスさまが言っているような思いになったのだ。

ミサが終わってから先輩の神父さんも、今日のミサはとても良い雰囲気だったと言っていた。お互い、何かを感じたのだろう。

 何を伝えたいかわからなくなってきたので、心に響いたところを箇条書きにしてみる。

 (1) 「道・真理・命」をミサの祈りの中で味わってみる

 (2) 改めてエマオの様子を、自分たちにもあてはめる

 (3) どんな状況であっても、神さまは私たちの歩みを支えてくださっている

―――

 これは私が感じたことを「分かち合い」の形で書いているものを、「望洋庵の窓から」にあわせて加筆・修正したものである。どのように終わってよいかわからないので、「分かち合いのポイント」のような形で終わってしまったことを付記しておきたい。


1 「分かち合い」をすることで、ある方から教えてもらった。既に奉献文 V は、「種々の機会 の奉献文」という名前で三年間の試用版として 1999 年に発行されていた。