望洋庵に行けない今

望洋庵に行けない今

~リレーコラムを毎週発信します~

                             望洋庵担当司祭  菅原 友明

望洋庵ホームページをご覧いただきありがとうございます。新型コロナウイルス感染拡大のため、全都道府県に緊急事態宣言が発令中です。教会での公開のミサや集会は中止となっており、望洋庵でも6月末までのすべての行事を中止とし、終日閉鎖しております。7月以降については、京都教区の指示に従いながら、状況を見きわめて判断していこうと考えております。厳しい状況ですが、社会を守るため、すべての命を守るため、今は皆様にも望洋庵へのお越しを自粛していただきたく、何卒よろしくお願い申しあげます。

本来でしたら望洋庵に集って、聖書のみことばに耳を傾け、聖堂で静かに祈り、一緒に分かち合いの時間を持つのですが、それがかなわなくなっている今、皆様に少しでも望洋庵とのつながり、他者とのつながりを感じていただきたく、この「望洋庵の窓」では、リレー方式で、担当司祭、シスター、青年が、皆様に向けたコラムを発信することといたしました。このような社会状況のもと、それぞれの場で、いろいろな思いを抱きながら日常を過ごされている皆様が、信仰の仲間とのつながりを意識でき、自分をみつめ、思い巡らすためのささやかな糧になれればと、願っております。また、私たち発信する側にとっても、皆様とのつながりを感じさせていただく恵みの機会であると感謝しております。

毎週1回発信する予定です。第1回目の今回は、望洋庵担当司祭の菅原が執筆させていただきます。公開でのミサは中止になっておりますが、先週の日曜日(2020年4月26日)のミサの福音朗読箇所だった、「エマオへの旅人」の場面について、書かせていただきます。(ルカ福音書24章13-35節参照)

どうして、あの2人はエマオへ向かったのでしょうか?エルサレムからエマオまでは約11キロ。途中イエスが一緒に歩き出して、そしてエマオに到着して宿で食事をして、イエスがパンを裂いた瞬間に、はじめて目の前にいたこの人がイエスだったと気がつきます。でもその瞬間、イエスの姿は見えなくなりました。この出来事の後、直ちに、二人は再び11キロの道を引き返して、エルサレムに戻るのでした。直ちに、でした。「時を移さずに出発した」と書かれています。

二人にはそれなりの予定があってエマオに向かったわけなのに、そんなことはどうでもよくなって、すべてすっぽかして、エルサレムにとんぼ返りしたわけです。11キロといったら、京都駅から嵐山までの距離です。くたくたになっていたはずです。それなのに、二人は直ちに引き返すことにしました。イエスがパンを裂く時まで、まったく自分たちの計画になかったことが、直ちに実行されていく、ここにこそ、この世界の、私たちの人生の、素晴らしい醍醐味があるのではないでしょうか。

私たちは、将来の夢、未来の自分、いろいろと計画します。自分なりにプログラムを組みます。でも、どうでしょう。計画通りになっているでしょうか?むしろ、自分が思い描いた通りではなくて、自分の計画が否応なく打ち破られたような、そのような出来事によってこそ、私たちの人生は紡がれてきたのではないでしょうか。自分のプログラムを超えた、自分では予期すらできなかったようなことによって、いつも自分は新しく導かれていくのだと思います。

予期していなかった新型コロナウイルスの感染拡大。オリンピックが延期になるようなこの事態、数人の司祭だけでマスクをつけて復活徹夜祭を祝うようなこの事態を、少し前までは誰も予想していなかったはずです。一方で、このような状況の中で、人間の優しさ、愛、犠牲、助け合い、多くのものが光り輝きはじめているのも感じます。

元通りの生活に戻りたいというのが私たちの今の切なる願いですが、でも、まったくの「元通り」にはもう永久に戻らないという厳然とした事実もあるはずです。宇宙はものすごい速度で膨張しているし、歴史はどんどん進んできたし、自分の肉体も新陳代謝で日々別物になっていく…、何もかも、ぜんぜん、元通りなどではないのです。ただ、「エマオへ行く!」と出かけた二人は気がついたらまたエルサレムにいました。私たちはどこへ行くのでしょうか?人間はどうしても「私の計画」「昨日の計画」に縛られがちですが、私たちひとりひとりは、今、新しい何かへと招かれているはずです。

黙想のヒント:自分はどこから来て、今どこに居て、どこへ向かっているでしょうか。

(2020年4月29日)