リレーコラム 復活節第4主日 ヨハネ10:1~10

S.S.K

皆さんこんにちは。リレーコラム2回目です。               

このリレーコラムは日曜日の福音を読み数日生活をしてみて感じたことを書いてみようということで始まりました。

過ぎた日曜日(5月3日)は復活節第4主日。福音はヨハネ10:1~10(羊飼いと羊の関係)が読まれました。 “わたしは羊の門である”“わたしは良い羊飼いである”。・・・門番は羊飼いに門を開き、羊はその声を聴き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと先頭に立っていく。羊はその声を知っているのでついていく・・・羊と羊飼いの親密な姿。羊がいかに自分の主人に信頼し頼り切って生活しているかが描かれています。そして福音に先立つ集会祈願では、“・・私たちが道に迷うとき、一人ひとりに呼びかけて下さるイエスの声に耳を傾けることができますように・・”と祈りました。

羊は、誰かに導いてもらわなければ自分で牧草を見つけることができず、迷い出たら自分で群れに帰ってくることもできない動物といわれています。しかも何の武器も持たず走りも遅く野獣が来ても守ってもらわなければ襲われるに任せることしかできない。だから羊飼いは一晩中焚火をして自分が襲われるかもしれない野獣から命がけで羊を守るのです。

羊飼いは自分の羊の名前を呼んで門から連れ出します。羊はその声を聞くと懐かしさとうれしさによろこびおどりながら集まってくるのだと思います。その声は、羊飼いの自分たちに対する愛深い呼びかけであり、愛されていることを感じとっているからです。 羊飼いは全部連れ出したら先頭に立っていくのです。羊を誰にも任せず自分が責任をもって命を懸けてでも守るという毅然とした姿勢です。それでも、一匹でもいなくなったら、必死に探し回るのです。きっと大きな声で名前を何回も何回も呼びながら、見つけるまであきらめず探し続け、見つけたら喜びのあまり抱きしめるやさしい羊飼いなのです。

この羊飼いと羊の信頼関係が、イエス様と私たちの関係であることは言うまでもありません。

今日も私たち一人一人に門を開き呼びかけておられるのです。

コロナウィルス感染拡大で、人々の生活が脅かされています。緊急事態宣言の延長で自粛がいつまで続くかわからない、先の見えない日々。もしかしたらさらに長期化するかもしれない不安な状況の中、様々な声や言葉が飛び交い、感染した人も感染していない人も不安の渦に巻きこまれているように思います。

教会の門は閉じられ商店街のシャッターは降ろされ、ミサも集会もなくなり日常の買い物も自粛の中で回りに気を使いながら遠慮がちに行い、それでも、それぞれが自分にできる最大の努力をしながら、この事態の終息を願い続ける日々ですが、段々それは、コロナ終息を願う者として当り前の日々になってきているのかもしれません。

少しずつ様々な形の助け合いが広がっています。新しいコミュニケーションの在り方、新しい職場の在り方、余った物品や食材の新しい使い方、新しい時の過ごし方、新しい会議の在り方そして、緊急事態宣言の延長により長期化するかもしれないコロナウィルスとの共生の方法等々。

先日、一堂に集まれない私たちも2回目のオンライン会議をしました。このリレーコラムもその時語り合い立ち上げたことの一つです。

苦手だと思っているオンライン会議。画面の向こうで聞いている相手がわかっていても、なんとなくトチトチとして入りきれない自分。しかし終わってみるとそれなりに良い会議ができたな~と。これもまた忙しい社会の中で生活するメンバーのためには、新たな会議の在り方として取り入れてもよい会議の方法なのかもしれないと、思いを新たにする気づきの時でした。

以前は考えてもみなかった方法で、人と人とのつながりや助け合いが広がり、生き生きと生きる為の新しい生き方が少しづつ少しづつ生み出されているようにも思うのです。

ある神父様の言葉の中で、“教会の門は閉じられていてミサに参加できず、ともに集って祈り合い分かち合うことが出来なくても、私は門であると言われるイエスという門はいつでも開かれています。私たちはいつでも自由にそこを出入りしあたらしい牧草地に導かれ、永遠の豊かな命へと繋げて頂くことができるのです”

復活されたイエス様が、命を懸けて救い出した私たちのそばに寄り添って下さり、様々な声を聴き分けながら気付き実践していく力を下さるよう祈りたいと思います。