リレーコラム 復活節第5主日 ヨハネ14:1~12
ペンネーム:VIVA JESUS
皆さん、こんにちは。リレーコラム3回目です。復活節第5主日(5月10日)の福音について一緒に考えてみましょう。
「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」このトマスの素朴な質問が、「わたしは道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」というイエスの恵み深い言葉を私達にもたらしてくれました。これは最後の晩餐の場面であることが聖書の流れから推測できます。イエスは、この世から御父のもとに行こうとしている今、「わたしを通れば御父へと至り、御父と一つとなることができる」と断言しておられます。この先にその「道」のクライマックスがあることを見据えて、愛と熱情をこめて、真理と命に至る「唯一の道」を弟子たちにお示しになります。
今、私達はコロナウィルスという見えない敵と闘い、自分自身の、そして愛する人たちの命を守るために断絶された環境に身を置いています。全世界の人々と地球規模で、同じ時に同じ痛みと苦しみを共有するのは、私にとって初めての体験です。そして、奇しくもこのタイミングで、遠方に住む父が大きな手術を受ける事となり、私は父にもう二度とこの世で会えないのではないかという恐怖に囚われました。友人に祈りを願い、何とかして父の傍に安全に行く手立てがないかを必死で考えました。けれど移動時の感染リスクを想うと重篤の父と家族のもとに行く事はできず、「大切な人だからこそ、今は会えない。会わない。帰らない」という決断をしました。とても苦しかったのですが、この時私を励ましてくれたのは、祈ってくれた友であり、コロナがもたらした同じ十字架を背負う仲間達、そのために尽力しておられる方々の存在でした。そして真心から祈り、祈って頂く中で、私の小さな苦しみへ向けられていた眼差しは、十字架への道を自ら歩まれたイエスの姿へと自然と向けられていきました。
この福音箇所を黙想していると、「イエスの在り方」と「イエスや『この道』に従って生きる人々を次々と迫害していった人たちの在り方」の2つの「道」が対極的に浮き彫りに見えてきました。この両者の言動を眺めていると、後者の在り方と私のそれとが重なっていることにハッと気づかされました。神様のなさり方に抗い、何とか自分の道を行こうとする私の姿が日常生活の中に次々と見えてきたのです。自分の思う時に、やりたい事をやりたい様にする。その為にエネルギーを費やしている自分の醜い姿が浮かび上がってきたのです。そしてそれは『イエスの道』ではなく、『私の道』でした。
最近ある方から「キリスト教信仰を生きるとは、人となった神、イエス・キリストと、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、共に旅路を歩むことである。その旅路の終着点は、『神の国』と呼ばれる」という言葉を頂きました。骨身に沁みました。幸いなことに、私達は何度でも神の憐みによって、イエスの道に立ち返る恵みが与えられています。弟子たちと教会の歴史がそれを証明してくれています。時々立ち止まって、どこを歩んでいるのか「歩んでいる道」の点検をするのも善いですね。聖霊と聖書の登場人物、そして今私達と関わりある人々の姿が「その道」を照らしてくれるでしょう。
それでは皆様、どうぞお身体を大切に。この一週間を主と共に、喜びを携えて過ごして参りましょう。
2020.5.13(ファティマの聖母の記念日に)