おそるべし、聖霊

      ペンネーム ジャンヌ

 

 ※このコラムは、2020年聖霊降臨の主日にあたり、書いたものです。更新が遅くなり、時期がずれてしまいましたが、どうかご容赦ください。

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 みなさんは、どんなときに聖霊の働きを感じますか?

 私は人生をふりかえり、いくつもの大事な場面で聖霊の働きがあったと感じています。洗礼をうけるとき、進学するとき、転職するとき・・・様々な場面で、思いもよらない展開に進みながらも、その向こうに確かに「よいもの」が用意されていたと気づいたときです。

 しかし、私は今まで「全て自分で進む道を決めていかなければならない」という考えが強くあり、何かを決めるとき、まず祈るということをしてきませんでした。「自分で決めなさい」ということと「神様にお委ねしなさい」ということが正反対のような気がして、あれこれ悩み時間をかけて決めて進むタイプでした。現実的なこと(進学、就職、結婚等)を神様に委ねるのは無責任で、「うまくいかなかったときに神様のせいにしてしまう自分がいるのでは」と思い、変な気がしたのです。

 そして今、実感を持って言えるのは「神様は私に必要なものを必要なタイミングで用意してくださっている」ということ、そして、「聖霊は鈍感な私がそれに気づくためのアシストをしてくださっている」ということです。自分の決断の先に神様が用意してくださったプレゼントが待っている、という感じでしょうか。

 例えば、最近のできごと。私は先月、新しい職場に転職をしました。コロナ禍でミサや集会が中止になり、すっかり教会から足が遠のいていた中でのことです。入社して数日、同僚に自分がカトリック信者であるという話をすると、「Aさんも信者みたいですよ。同じ宗教かわからないけど・・・名前があるって言ってました」とAさんを紹介してくれました。後日、Aさんから「信仰をおもちだそうで」と話しかけられ、きっと違う宗派だろうと思い込んでいた私はおそるおそる「私はカトリックなんです」と答えると、なんとAさんはサレジオ会の教会に通う方だったのです。それをきっかけとし、職場に馴染むことができました。もし、同僚が「休日何をしているの?」と聞いてきたとき、自分が信者であることを隠していたら・・・、もしAさんが信仰の話を切り出してくれなかったら・・・、と考えると、その「もし」の場面に聖霊の働きがあったとしか考えられないのです。

 前々回のコラムで大塚神父様が神様を「父」、イエス様を「父のもとに行くための道、地図」と表現されているのを拝見し、自分と神様、イエス様の関係性がとてもよく理解できました。では、聖霊はどんな存在でしょう。自分の人生を振りかえったとき、聖霊は「主の道を歩む際、私を慰め、癒し、励ましてくれる存在。小石につまずくとき、歩くのに疲れてうだうだするとき、背を向けて寄り道をするとき・・・私が正しくまっすぐに主の道を歩けないときも、その道が途切れないようにとりなして下さる存在」でした。

 聖霊降臨の主日の朗読から、祝福を受け派遣を命じられた私たちは、誰かの受け売りではなく、「聖霊に満たされ“霊が語らせるままに“」口から出る、自分の生きた道で体験した神様の教えを宣べ伝えていくことが求められていると感じました。

 私たちは、それぞれの場所、立場、役割があり、どうにもうまくできないときがたくさんあります。教会に行き、活動に参加し、宣教らしいことができない、苦手な人もいるかもしれません。私はそうです。ならば、私は、仕事の中で、友人との付き合いの中で、聖霊にエールをもらい、今日出会う誰かに「主を信じる私」を語り、分かち合い、「私」と「相手」が自分自身にとって正しい道を歩めるよう寄り添いつづけることを地道に続けていきたいと思います。

2020年5月30日

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