主の昇天 マタイ28・16-20

ペンネーム かるしうむ

わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。【マタイ28・18-20】

 新型コロナウイルス感染症の影響で、4月に出された政府の緊急事態宣言は、先日5月25日に全面解除され、少しずつではあるが日常が戻りつつある。もちろん、今後もウイルスに対する警戒を緩めるわけにはいかず、気が抜けない。

 良いか悪いか、このウイルスは人の内面を外面に押し出したように思う。公園で子供が遊んでいるだけで警察に通報する人。営業自粛をしていない店舗を見つけては、ネット上に書き込む人。自粛警察という言葉も生まれた。普段感じていることについて、「行動」で表すようになった。こうした行動の背景は、集団への同調圧力から来ているのだろう。「皆が頑張って自粛しているのだから、あなたも当然そうしなさい」という圧力である。日本は島国であるからか、集団圧力というものが他国より強いように感じる。だからこそ、戦時中に「お国のため」という言葉の下、国民が一致団結したのではないだろうか。

 そんな「自粛が正義」という風潮の中で、バッシングを受けた記事を見つけた。昨年来日したフランシスコ教皇が、ローマの聖職者らに対して、「コロナウイルスに感染した患者に会いに行く勇気を持つよう」訴えたという記事だ(https://www.afpbb.com/articles/-/3272628)。3月10日にこの記事が出てから、特にインターネット掲示板やSNSで、自粛と逆行するフランシスコ教皇の言葉に対して大きなバッシングが起きた。その後イタリアの聖職者が50人以上死亡したというニュースも流れ(https://www.bbc.com/japanese/52029836)、「ほら見たことか」となった。普段から宗教に対する不信感を抱いている人たちからすれば、格好のネタだったに違いない。聖職者の人たちの心構え、神に一生を捧げ、他者のために生きるという使命(まさに今週の福音箇所である)を知らなければ、無謀な行為と結果としか見られないだろう。(社会的に小さくされた〔今回で言えば、コロナ感染者〕のところに、聖職者が行って祝福をすることは、カトリック信者としては当たり前なのだが…)

 そんなカトリックへのバッシングを見た上で、私は今こそ宗教が必要だなと感じた。社会がこれ程変容していく中で、宗教には必ず普遍的な「善」が存在している。それは人間の行動指針となり、まさに「神の国の実現」に世を近づけるものであると思う。人々にとっての「善」が変わりゆく中で、普遍的「善」を唱える宗教こそ、この変容の時代に必要なのではないだろうか。

2020年5月27日